2011年7月7日木曜日

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職場は24時間365日稼働しているため、日勤と夜勤のシフト制。

インターネットというものが誕生して、我々の生活は便利にそして迅速になってきたけど、
エンドユーザ(利用者)だと、サービスを提供しているサーバやネットワーク機器を意識する事は
そう多くない。メールが受信できなくなったとか、サイトが見れなくなったとか、正常に
サービスが使えなくなってようやく気にするくらいだろう。

電気や水道のようにスイッチやレバーを捻ればいつでも使えるように
インターネットも24時間使える事が当たり前になっている。

電気や水道と同じように生活のインフラになってしまっているから、
インターネットそのものはその歴史的性質上、余程の事がない限りは使えるとしても、
例えばインターネットを使ってサービス提供して商売している企業は常に安定したサービスを
提供出来るように稼働しているサーバーやネットワーク機器等を24時間監視しないといけない。

規模が大きいところは、外部企業にそうした監視業務を委託する必要も出てくる。
そうした業務に携わっているのが私の今の仕事である。所属する会社とは契約社員として
働いているが、その会社からは請負業務として今の職場に従事している。

つまり、会社が契約しているクライアントの現場で働いているのだが、
「請負」契約は「派遣」契約に比べると従事している本人への責任レベルが低い。
「派遣」はクライアントからの指示が直接本人に行くが、「請負」は間に所属する会社が仲介し、指示もクレームも会社が一旦受けることになるので、「派遣」に比べると何か仕事でミスしても
余程評価が酷くない限りはクビになる事はない。

もちろん「請負」は「契約」に比べると給料は安い。
会社が契約するいくつもの現場で唯一従事人数の多い現場ということで、
1人1人の評価よりもチームワークが発揮できているかという点がどうしても重視される。
なので、誰かが業務改善に貢献する様なツールを作成しても中々評価はされないけれど、
誰かが対応ミスすれば、それが特に業務委託先からクレームを受けようものなら、
直接の本人は会社から始末書提出を求められ、残りのメンバーは連帯責任を負うような緊張感を
嫌でも感じながら従事しないといけない。

おまけに会社では、遅刻や早退、欠勤がないか、各種書類提出期限を守れているかという
他の会社どころか、社会人としては最低守るべき事項しか見ていない。
大学生ですら、テストで良い点を取ればそれだけプラスの評価をしてもらえるのに、
この会社では勤務態度が悪い場合だけ減点するという持ち点減点方式を実施している。
この点を訊ねてみたが、プラスとなる評価方法については検討中だという。

だが「請負」として働いている限りはプラスの評価が給料に還元される事はほぼなさそうだ。
契約上、クライアントから払われる予算が決まっているため、新業務で売上が増える、
という様な事がない限りは、どんなに頑張っても評価はされど、それが給料としては
反映されるのは中々難しいのである。

35歳くらいまでなら、余程の問題を起こさない限りは今のままで働けるかもしれない。
だが世間一般的に30歳で年収が500万どころか、300万を切る様では今の生活パターンを
繰り返している場合ではない。そんな事を考えていると生きるのがふいに面倒くさいなと
感じる事が最近多くなっている。

そうした事を一時でも忘れるためというわけではないが、
同じ会社の同僚の誘いで、築地市場で海鮮丼を食べる事になった。
田園都市線から半蔵門線、そして都営大江戸線で築地市場で下車。駅から地上に出ると
すぐそこに市場の出入口。観光客専用の通路でも設けられているのかと思ったが、
そんなものはどこにもなく、海鮮の香りを漂わせながらターレーやトラック、荷台、
市場関係者が忙しく行き交っている中を縫う様に歩く。

元は市場で働く人たち向けに開いていたのだろう幾つかの店が軒を連ねる通りには
人の行列。目当ての店も例外なく行列だったが、それほど待つ事は無かった。
震災から3ヶ月が経過したよく晴れた日だったが、そんな影はもう微塵も感じられず、
いつも賑わいを見せている。やはりというか、予定調和というか、各種の海の幸でウニが
これ程美味しいものだとは思わなかった。ウニと白いご飯だけでも贅沢品である。

近いうちの再訪を心に誓いつつ、途中でテリー伊藤の兄が経営しているという有名な
玉子焼きを売っている店を見ながら、築地本願寺へ向かう。
ヨーロッパに日本のお寺があったら、こんな感じになるのだろうか。
不思議な建築様式をしばし見渡しながら、お参りして築地本願寺を後にした。

2011年7月5日火曜日

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群馬県は伊勢崎市、華蔵寺公園遊園地に長らく展示保存されていたという。
かつて特急「はつかり」、寝台特急の先頭車として現役を張っていた時代があったが、
昭和末期に生まれた私は当時の姿を知らない。

「はつかり」も寝台特急も、583系やEF81電気機関車のように現在でもふいに見かける
車両でしか思いつかない。583系については、寝台特急としては乗った事がまだ無いけれども。

写真をいくら見ても実感は湧かない。

大井川鐡道で蒸気機関車の牽く客車に揺られて、さらにその先の井川線で終点の井川で
降り立った時、ふと顔に触れた時に指に黒いものが付く。井川駅の男子トイレには
何故か鏡が無かったので、切符窓口の人に借りた鏡を見ながら、顔に付いた煤を
ウェットティッシュで拭いている時、蒸気機関車に乗った事が確認できた。

それで国鉄時代の時刻表には洗面所を示す凡例が、駅弁と同じように並んでいた事も
自ずと理解できたのだ。今、水飲み場として使われているのは昔の名残なのである。

今回の蒸気機関車ももちろん、現役だった頃を再び蘇らせたのだから本物に間違いない。
だが、大井川鐡道のような強烈な体験は出来ないだろう。それでもいい。
大井川鐡道とは違った角度で楽しめる機会がある事は決して悪い事ではない。
もちろん、当時乗っている体験があるに越した事は無いけれど、蒸気機関車と新幹線、
近郊型車両、気動車などが一緒の姿を楽しむなど当時とまた違った楽しみを提供されている事は
有難い事だし、とても恵まれている事ではないかと思う。

イベントでよく使われる青い12系客車ではなく、茶色の旧客車だったのが救いだろう。
C61も現役を少しでも思い出しながらじっくりと走ったのかもしれない。

初日にして、線路に人の立入りによって緊急停車が発生した事を除けばだが。。。
このまま運転取りやめになるのでは、という空気がしばらく流れたが、無事に運転再開。
車内で飲む缶ビールも何故か旨い。ついつい、350mlを2缶も飲んでしまった。
勢いで復活記念のサイドボードも購入してしまった。
相席の若い男の子達と挨拶がてら雑談をしながら、高崎駅で購入した「クロイチ」のボイラーを模った駅弁のふたを開ける。黒いレンコンは機関車の動輪を、卵焼きにはC61ー20の焼印という
こだわりが素晴らしい。高崎支社の熱意を感じる。

ボックスシートでのひと時はあっという間。
線路の立入り事故が無ければ、途中駅の長時間停車でゆっくりと撮影をと思ったのだが、
どの駅もあまり時間をおかずに発車となってしまったので、余計に時間が経つのが早く感じた
ということもあるだろう。

水上では転車台に早速移動したC61がターンする所を堪能してから、横の行列に並ぶ。
限定数1000の記念入場券を購入しようと思ったからだ。2時間ばかり、強い日差しの下で
並ぶ事になったが、無事に入手。iPhone4販売日も同じような暑さの中、銀座の通りを
8時間かけてゆっくりと歩いた体験に比べたら、何て事はない(笑)

明日も休みなら水上に宿泊してもよいのだが、もう帰らないといけない。
普通電車では地元から6時間、飯田線を乗り通すのと同じくらいの時間なのである。

2011年7月3日日曜日

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JRに臨時の急行が走っているわけではない。
臨時の快速ならまれにSLだったり、横須賀線で活躍した115系といった車両が走る事はあった。基近年なら「ニューなのはな」に代表されるようなジョイフルトレインは定番になっているが
最近なら前のニッキで記した、赤いディーゼル機関車ことDE10が新潟の「ばんえつ物語号」
として使用されている客車を牽引した、臨時快速「おいでよ房総物語」号が記憶に新しい。

ばんえつ物語の客車には、「ばんえつ物語」のロゴがそのままになっていたので
ヘッドマークは「おいでよ房総物語」なのに、という臨時列車でも珍しいケースだろう。
なので、千葉に居ながらして「ばんえつ物語」に乗った風に写真が撮れた(笑)

これから見に行く急行とは、いすみ鉄道がJR西日本が大糸線で走っていた車両を買い取り
毎週土日だけ、観光向けとして走らせているキハ52系である。
それまで何度かいすみ鉄道社長のブログを読んでいたが、予定が延び延びになって
ようやく最近運行されるようになった。

時間をちゃんと調べていなかったので、昼過ぎに出発したのだが
いすみ鉄道の乗り換え駅である大原に到着すると、目的の急行がホームに停車している。
どうやらこれから発車するらしい。グッズ販売と観光案内を兼ねたスタッフから急行の
指定席券を購入すると、私が最後の客だったらしく、すぐに動き出した。

片開きのドアが閉まるとゆっくりとホームを離れていく。
指定席と自由席の大きな違いはボックスシートかロングシートかの違い。
ただ途中の大多喜までしか乗れないので、どちらでもそれほど差はない様に感じる。

ただし、それは我々ペットボトル世代だけで、栓抜きでジュースやビールの蓋を開けていた
風景が当たり前だった世代には懐かしの栓抜き体験が出来るという特典が付く。

隣の若い男性は栓抜きを当てがい、コーラの蓋を開けんと四苦八苦していたので
声を掛けて、瓶を開けてあげた。あてがう角度に少々コツがいるが、開けた瓶を渡してから
思わず体験出来た喜びとともに、この人には悪いことをしたなと少し後悔した。

この急行が運行されるに併せて、途中の上総中川では駅名票が昔を懐かしんでもらおうと
国鉄(?)風のデザインになっている。車内をよく見渡すと、出来る限り大糸線で活躍していた
当時のままで走らせると社長が自身のブログで綴っていた様に、国鉄時代の中吊り広告がある。
「特急 白根号」の文字を見て乗りに行こうかなと思ってしまったが、今はJRである(笑)。
写真の吾妻線のかの有名な国鉄最短のトンネルを潜る183系国鉄色は最近でもたまに見かける
車両だから、違和感がなかったのだ。それだけ現代でも通用するデザインなのである。
(2004年11月27日、28日に懐かしの特急白根号として運行されていた様です。)

短い乗車区間だったけれど、社長の本気を垣間見る事が出来た。
観光列車と銘打っているけれど、車内外ともに貴重な動く鉄道博物館である。

車内でスタッフが販売していた復興応援切符を購入した。

被災したひたちなか海浜鉄道、三陸鉄道と同じ第三セクター鉄道として、
いすみ鉄道も含めた硬券タイプの入場券が各社1枚ずつ、「勝田」「盛」「大多喜」と
縁起の良い駅名の入場券が台紙付きになっているもの。

1000円で三社ともに応援できるなら安いものだ。いつかは乗りに行きたいと思っている。

大多喜から黄色い列車を待つ。オールロングシートが端から端まで埋まっている。
若い人もいるが、全体的に平均年齢は高めな車内。ほとんどが観光客だろう。
終点の上総中野では前回訪れた時は運転日でなかったために乗れなかった粟又の滝行きのバスが
発車を待っている。徒歩では1時間かかった日帰り温泉の小旅行を思い出した。

明るいうちに小湊鉄道も乗りたかったので、今回はそのまま待っているツートンの気動車に
乗り込む。前回は最終の17時発に乗ったが、しばらくは街の灯りがほとんどない様な人気がない
場所を走り、その日は走っているうちに霧で視界も良くない闇夜だったから、レトロな車内も
相まって別の世界に連れていかれるような不安があった。

今回は太陽の光が優しく差し込む車内なので、しばらくは人気が少ないという感じは同じだけど
印象は全く違う。とても穏やかでゆっくりとした空気が満ちている。
昼と夜でこれほどまでに印象が違うのは、初めての経験である。乗り鉄の端くれで、
JRの距離が長い路線では朝から夜まで乗り通す事もあったけれど、ローカル線となっている
路線では乗客がまばらで淋しいという感じはあっても、どこに連れていかれのだろうという
不安を感じた事は無かったからだ。

途中の上総牛久からは運転本数が急に多くなるように、乗客も急に増える。
夜間だとタイムスリップでもしたのでは思ってしまうような風景の変わりようだ。

帰りに乗った特急「成田エクスプレス」はほぼ貸し切り状態の車内。
車両を新調してまで運転されているのだから、たまたま乗った時間帯はガラガラで
お盆休みやゴールデンウイークなどの観光シーズンには席が埋まるのかもしれない。

2011年7月2日土曜日

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5月のとあるよく晴れた日。夜勤明けに花見でもとやって来た新宿御苑。
鮮やかな空をバックに一部満開とまでいかないまでも、そのピンク色は今までもよりも
より強く咲いているように感じた。ふと、涙が出そうになった。

日本人である事をこれほど強く感じた事は今までなかったように思う。
何だか気持ちが軽くなって、近くの飲食店で花見酒ならぬ、瓶ビールを傾けて。

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まだまだ鉄道の運休ダイヤが少々目立つ今日この頃。
特にJRは日本最大の鉄道網であり、震災で影響を受ける部分も大きい。
鉄道設備への打撃のほか、電力不足による節電を考慮して運転本数が制限されている。

計画停電が声高に叫ばれていた当初は、被災地への思いから自粛ムードが高まり
「不要不急の旅は止めよう」という表現を戦後でない現代で再び見る事になるとは思わなかった。

交通網が寸断された事で流通が滞り、燃料不足という事態から特に自動車は
ガソリンスタンドにガソリンを求めて長蛇の車列が道路の至る所で見かけた。

原因は少し事なるが、かのオイルショックの光景そのものであった。
国の安全基準を超えた放射線量が水道水から検出されたとなるや、買い占めによって
多くのコンビニの陳列棚から水が消えたりしたが、後々確認して問題ないことが判明すると
もう陳列棚から水が消えるという光景を見ることは無かった。

しばらくは物流が十分機能して無かったのと、被災地へ優先して物資輸送していた関係で
弁当を中心とした食料品がほとんど陳列されていない状況が続いていたが、
状況が落ち着いてくると、ようやく品揃えも戻って来た。

この間1ヶ月くらいだったが、他の国ではこれ程早く正常化するものなのだろうか。
日本という国には結構すごい国なのではと改めて感じる。世界的に変態国家だと思う。

青春18きっぷが有効回数がまだ残っている。
消化のために、吾妻線へ乗りつぶしの小さな旅をしようと思ったのだ。
旅立ってから気づいたが、節電ダイヤによって途中の長野原草津口までしか運行してなかった。

草津温泉への玄関口と駅だから、温泉に浸かって戻ろうと考えた。
八ツ場ダム建設によって、一部区間の線路が少々移動する計画になっているが、
その新線では日本一短いトンネルとして有名な樽沢トンネルが用途廃止になるそうだ。
その時は単にぼぅーと車窓を眺めていたので、意識してそのトンネルを見なかった・・・

草津温泉へはバスでさらに数十分先まで乗っていかないといけないらしい。
宿泊する予定ではなかったので、帰りの列車の時間を考えて止めておく。
そうなると1時間後に列車がやって来るまで、駅前を撮影してもだいぶ時間を持て余す。
観光案内のパンフレットやら、ポスターやら、マップを見ても持て余す。ベンチに座る。

しばらくすると改札の奥がざわついた気配を感じ、数十人が改札を抜けていく。
乗るべき列車はホームにやって来たようだ。全線復旧したら、また乗りに行こうと思う。

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2011年3月11日。
雪の降る水上駅。じっとしていると体の芯から冷えそうである。

あの時。私は夜勤明けでそのまま特急列車で水上に行き、近場の温泉で湯船に浸かっていた。
最近やけに多いなとは思っていたが、タクシーを呼ぼうとしたらついぞ連絡が取れないという
状況に、温泉施設の方が親切にも車で駅まで無料で送って頂いた。

駅に着いたは良いのだけれど、列車は待てど暮らせど動く気配はない。
線路の安全点検中で運転再開がいつになるのか、見込みが立たないと構内アナウンスや
そばの駅員達が乗客に訊ねられる度に同じ説明をしている。

明日はまた夜勤なので、最悪今晩は水上で宿泊して明日動けばどうにかなる。
改札からは見える吹きさらしのホームにはEF64形という青とクリームに塗り分けられた
電気機関車が2両の青い客車、こちらはイベント用でよく見かける12系と呼ばれる形式を連結し、いつでも出発できる用意を示している様にヘッドライトを灯している。
おそらく何事も無ければ、水上駅でじっくりと見る事は出来なかった編成である。

この調子では地球最後の日であっても、どこかの駅にいるかもしれない(笑)

それから4時間近くは駅舎にいただろう。これ程の長時間を駅舎で過ごすのは初めてである。
水上に宿泊しようかと考えが傾き始めた頃、JR側からようやく代行バスの手配がされ、
夜7時過ぎ、フロントガラスに「JR東日本 列車代行輸送」と掲げられたマイクロバスには
席が丁度埋まるか、埋まらないほどの乗客を乗せて高崎まで3時間かけて南下した。
3時間もかかったのは、高崎までの各駅前に停車していったからである。

列車での3時間は苦痛ではないが、バスに揺られて3時間は大変疲れる。
それを考えると、夜行バスに乗るのは修行以外の何物でもない。

はるばる戻って来た感がある高崎で予約した高台にあるビジネスホテルで一夜を明かす。
部屋に入ってからもまだ余震は続いている。果たして明日は大丈夫なのか。

・・・そして朝。駅へ行くとどうにか列車は動いているようだ。
他の私鉄や地下鉄では震災直後からすでに運転再開するところもあった事もあってか
早々に運転見合わせにしたJRへの対応に非難の声が後々聞こえてくるようなったが、
自動車が全国に普及している現在でも、鉄道に信頼を寄せている証とも言える。

昨夜はバスでどうにか高崎までやって来たが、今日の夕方までには八王子付近まで
戻っていないといけない。どうにか動き出した高崎線の列車で大宮方面を目指すが、
次の倉賀野で長時間停車する事になってしまった。ここでしばらく待ってもすぐに動く気配は
なさそうである。震災2日目ではまだ通常ダイヤで運転再開とはいかないようだ。

普段の、というとおかしな表現だが、地震が発生してもしばらくすればダイヤ乱れは
回復するはずなのだが、それがこれ程の長時間に渡って一向に通常ダイヤにならないのは
今回の地震が大変なものだとようやく理解し始める次第だ。

倉賀野へ向かう途中で八高線の気動車がすれ違っていた。八高線に乗り換える事にする。
だが倉賀野で下車すると、当然高崎から倉賀野までの運賃が払わないといけない。
この震災はJRのせいではないが、八王子へ向かいたいので、八高線に乗り換えるべく
ここで下車して八高線の駅まで歩いていく旨を告げると、ここまでの運賃は支払わずに
済む事になった。

八高線の一番近い駅は北藤岡だが、ここは無人駅。
次の群馬藤岡なら駅員がいるので少々距離があるが、1時間ばかりを歩いていく。
途中上越新幹線の高架を過ぎて、車の通りが少ない道を黙々と歩いていく。

群馬藤岡に到着し、駅員に尋ねると少し前に列車は発車して隣の丹荘に停車中との事。
丹荘から先の線路の安全確認中という事で、もう少しで運転再開される見込みだという。

ここからは幸い待っていたタクシーで丹荘を目指す。丹荘の駅前に到着すると、ホームには
気動車が一両止まっているのが見えた。そしてホームにいた駅員に尋ねると、
ホームの少し先を指で示しながら、もうすぐで安全確認が完了すると教えてくれた。
その方向に目をやると黄色いヘルメットの作業員が数人、作業しているのが見えた。

私が乗り込んでから数分で気動車は再び動き出した。
丹荘に着くのがもう少し遅かったら、タクシーで寄居まで行く事になりそうだった。
群馬藤岡から結構距離があるので、当然タクシー料金も馬鹿にはならないのだ。

どうやら八高線に乗り換える判断は正解だったようで、心配は杞憂に終わった。
一旦自宅に帰ったけれども、あまり眠れない体で夜勤に向かう事になった。

が、本当の地獄はその後にやって来た。
震災による津波で福島の原子力発電所にトラブルが生じ、本来の電力供給量を下回り、
東京電力から計画停電の緊急発表。この影響で大規模停電を回避するべく、一般家庭、
各企業だけでなく、鉄道各社も節電のための運転本数削減を実施せざるを得なくなった。

6月に入り、今でこそ節電による一部本数削減ダイヤで落ち着いている状況が続いているが
この時の小田急線ほど、カオスだった鉄道はなかったと思う。
震災直後に通知されたプレスリリースでは経堂〜新宿以外は運休という状況だった。
当然、東京方面に向かう通勤客を中心にかなりの混乱が生じた。
何故なら当社の東京電力からの計画停電の発表が直前までなく、小田急線としてもその発表が
あった深夜にプレスリリースを出さざるを得ず、そんな事を知らずに普通に動くものだと
ほとんどの乗客は駅に向かって初めてその状況を知る事になった。

その後もしばらくは東京電力からの発表は二転三転して、計画停電もいつ、どの地域で
実施するのか良く分からない状態が続いていた。当初の直前発表は徐々に解消されていたが
大規模停電を回避するべく、一部の時間を除いて運休区間が続いていた。
私の職場は町田にあるのだが、通勤時間帯に江ノ島線や小田原線の本厚木〜小田原が運休が
長く続き、仕方なく職場までの40kmを仕事帰りの途中で購入した中古のママチャリで
移動する羽目になった。本厚木から箱根方面へは緩やかに山を登っていく地形になっており、
自宅付近まで上り坂の連続。国道246号線を延々、ずっと座っていると感じる尻の痛みを我慢
しながら、職場と自宅を往復したが、あの地獄がしばらく続くのかと絶望になった。

1週間ほど過ぎて、ようやく小田急線も本数が少ないながらもまともに動くようになり、
久しぶりに小田急線のクロスシートに乗って揺られていると、列車で移動できるという事の
ありがたみを改めて感じた。
それでもしばらくは一部運休が続き、夜勤明けでその日も夜勤だと時間的に自宅には
帰れない日は職場近くのスーパー銭湯で仮眠せざるを得なかった。

今なお、福島の原子力発電問題は収束する様子もなく、悪化する事もなく続いている。

津波に備えて国として対策する猶予はあったのにそれを先送りにした事を批判している
小さな声はWeb上でいくらでも囁かれている。しかし、国だけでなく今まで我々の多くは
今回のように電力供給が綱渡りな状態になるまで、関心を示す事なく安全でクリーンな
エネルギーだと信じて疑わなかった。だから「脱原発」を唱えるのも勝手な話ではある。

最近になってようやく東京電力側が震災発生当初に原子炉でメルトダウンが発生していた事を
認めるに至っているが、それでもなお大規模停電にはならず、放射線量が増える事なく
横ばいの状態で現在に至っている。それは言うまでもなく、自らの命を賭してでも現場で
懸命に作業している人達のおかげである事に常に感謝し、忘れてはならない。

それが今まで原発に関心を示していなかった我々が出来る唯一の行為だとも思う。

きっと今年も昨年並みの暑さがやってくる事だと思う。
昨年と違うのは、電力需要が供給を逼迫する懸念がある点だ。下手すると本当に大規模停電
という事態も覚悟しないといけない。本当の「ヤシマ作戦」とならないように、特に
プライベートで節電を意識する事、被災地への観光で復興支援する事が我々に出来る事だろう。

だから、私は今年も昨年と同じようにどこかへ列車で移動する旅をしていると思う。

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【都市伝説を求める旅 2日目】名古屋城と武豊線と天竜浜名湖鉄道

青春18きっぷのように計画された旅行ではないので、気楽な2日目。
特に考えていなかったけれど折角名古屋に来たのに、名古屋城を見ないで帰る事もないだろうと
わざわざ名古屋市交通局の地下鉄に乗って、名古屋城の最寄駅である浅間町で下車。

浅間町から降りると、名古屋城に入るためにはお堀を半周歩かないといけない。
入る前に外観をゆっくりと見てから観覧するのも悪くない。
入館料は500円。この目で映像や写真ではない本物の金のシャチホコを焼き付けてから
城内の展示物をじっくりと眺めつつ、天守閣を目指す。

館山城から見下ろした館山の街と同じように、名古屋の街が見下ろせる。
全く殿様気分にもなれず、何の感慨もないのだが、気づかぬうちに鉄道乗り潰しの他に
日本各地の城巡りを目指していそうだ。(笑)

城内のお膝元で営業していた食堂で味噌カツときしめんのセットを昼ご飯に。
お腹が落ち着いたら今度は武豊線へ。地下鉄も先程とは違う路線で戻りたいので、
今度は市役所から名城線で金山まで乗っていく。名城線は環状線になっていて、
名古屋の山手線ともいうべき存在といえよう。

金山から武豊線に乗り換え。本来は名古屋から乗るべきところだが、折り返しの列車で
名古屋に戻るので、ポリシーとしては問題ない。
昼間と夜間では車窓の印象が異なる路線はローカル線と認識されているような路線では
その差が大きいと思われるが、今回の武豊線も流れる風景を見るとそんな気がする。

沿線に住宅地が密集している路線ではないので、特に夜間乗っていて幻想的な摩天楼が
突然現れそうな危うい雰囲気はありそうだ。乗車時間はわずか30分の短い旅ではあるが。
終点の武豊。騎手で有名な武豊と同じという事で、20年ほど前に一日町長として招待された
歴史のある駅らしいが、知らない人は知らないだろう。駅舎にも駅前にもそれをアピールする
ような張り紙等は見当たらなかった。そして飲食店も喫茶店も何もない。

仕方なく乗って来た列車で折り返す。
名古屋に着くまで柔らかな日差しが穏やかな車内だった以外に変わった出来事はなかった。
もちろん、「つきのみや駅」も見つける事は出来なかった。

ここで唐突に話の流れが変わるが、後で調べて判った事だが、日本列島の九州から愛知県は
豊川あたりまでは「中央構造線」と呼ばれる断層が列島を北と南に分断するがごとく貫いている。その線は豊川辺りから北へ天竜川に沿って急カーブし、長野県で糸魚川ー静岡構造線と呼ばれる、縦の構造線と直交して、群馬県を通って東に横断して千葉県へと至っている。

さらに脱線するが、今の日本列島は太古から時間を掛けて今もなお、地震の原因となっている
大陸プレートが動いた事で形成されてきた、と何となく理解していたが、その痕跡が
中央構造線などの「構造線」と呼ばれるものだ。感覚的には物を引きずって出来た傷だろうか。

今から約2000万年前、ユーラシア大陸の一部だったが、現在の日本海となる辺りで
西部の岩盤が時計回りに、東部の岩盤が反時計回りに動き、その動きに挟まれるようにして
地盤が沈み込んで出来た折り目にあたるのが、先述の糸魚川ー静岡構造線ともうひとつ、
さらに東京寄りで同じく縦に走る柏崎ー千葉構造線があり、この2つの構造線で囲まれた地域は
ラテン語で「大きな窪み」を意味する「フォッサマグナ」と呼ばれている。

この地域では元々の岩盤が沈み込んだ事でその窪みに別の地層が形成されている。
つまり、縦に走る構造線を境に地層の年代が異なっている。
その全てではないが、その窪みの淵の部分が数々の山脈を形成している。この狭い国土で
これほど山が多いのはそうした歴史があるということを改めて知った。

またさらに脱線するのだが、「レイライン」と呼ばれている線がある。
こちらは先程の岩盤が動いた云々とは関係なく、特定の場所を起点にして、途中いくつかの
重要な地点(遺跡など)を直線で結んでいく事で何かの発見や考察などをするための昔の人が
提唱した手段である。構造線のように地形にくっきりと痕跡が見られるものではなく、
人間が考え出したいわば「想像線」とも呼ぶべきものである。

で、これもWebで検索してみると日本の場合に限った話かさておき、春分の日、秋分の日、
夏至、冬至の日の出、日の入りの位置から富士山や重要な神社などが直線で結べる事から
これを「太陽の道」「ご来光の道」と呼び、信仰して来た歴史の説明が見られた。
海外発祥の考え方である「Ley line」だが、「L」「R」の発音が苦手な我が日本人らしく
「Ray line」、つまり「光の道」という解釈が太陽信仰に結びついたという興味深い考察を
しているサイトもある。
間違った解釈かはともかく、太陽信仰について。もちろん実際地球は平面ではないので
レイライン上の地点全てで太陽の光が拝める訳ではない。信仰としての「光の道」である。

そしてトドメは私の妄想である。

先程の「構造線」、そして「レイライン」。実は豊川辺りでこれらの線が交わっている。
夜行列車の書き込みをもう一度見て頂きたい。「静岡県か愛知県あたり」だが、
私は「つきのみや駅」に出会うさらなる条件があるのではないか、と考える。

2つの線が交わる豊川あたりで、太陽の光がレイライン上となる日に夜行列車に乗っている事。

単に夜行列車で名古屋付近を乗っていても出会えないのかもしれない。
条件が合致する特定の日、特定の場所で無くてはならないのでは、とふと考える。

構造線上では「ゼロ磁場」という、見かけ上は磁場がない様に見えてお互いに押し合って
いる断層によって磁場が打ち消している特異の現象がすでに判明している。
そしてその磁場こそが、人体に良い影響を与えている「気」を発しているとして
ある場所はパワースポットとして、人気を集めているそうだ。

良い「気」もあれば、悪い「気」もないとは限らない。
それが死に至らしめるものではなくても、ちょっとした不思議な体験につながる可能性が
ないとは言えない。その「気」によって、普段は見えない駅や摩天楼が見えてしまうかも
しれない。だが本人の目は覚めているので、夢とは思えず、「気」のせいだとも思う事は
まずないだろうから、人に言っても信じてもらえそうにない、リアルな体験だけが残る。

人に言ったところで、「気のせいだね」と言われる。
信じてもらえたのか、もらえなかったのか。。。果たして(笑)

名古屋から東海道線で帰ろう。もちろん、この時は構造線の事も、レイラインの事も
何も調べずに単に思いつきで旅立ったので、この妄想はニッキを書いている時のものだ。

ふと乗り潰そうと今度は新所原から掛川まで北寄りへ迂回する様に結んでいる私鉄、
天竜浜名湖鉄道に乗り換える事にする。これが結果として良くなかったのは知る由も無い。

新所原の駅舎はJRのを間借りしている様に見えるが、隣り合っている。
JR側の駅舎が目立つのは否めない。あまりにも隣り合っているためか、到着した気動車から
JRへの乗り換え客が駅舎の方向に迷う一場面も見られた。

発車まであと10分足らず。改札そばの椅子付近で待っていると、目の前で販売している
うなぎ弁当が気になってしまう。良い匂いも漂ってくる。ついに理性が吹っ飛んでしまった。
これを食べずに去るのはきっと後悔するに違いない。いくら豊橋の鰻屋でうな重を食べても
それとこれは別だ。気動車でうなぎを食べる機会なんてそうそうあるだろうか。

そうなれば、迷う事はなかった。
幸いにしてボックスシートは確保できたので、後々混まないうちに頂く事にしよう。
鰻屋程ではないが、しっかりと焼かれた小降りの鰻屋が2、3枚。甘いタレが素晴らしい。
黄昏時に気動車に揺られながら、鰻を頬張る。やがて見えてくる浜名湖は地形的に
東海道線より有利で、よく観察出来る。東海道線だと鉄橋を渡るだけの呆気ない時間しか
見る事が出来ないが、こちらこそは浜名湖の本当の表情を見た気がした。

鉄道会社名に「浜名湖」が冠されているだけはあると心の中で一人納得する。

車窓をしばらく楽しませてくれた浜名湖を過ぎると、ゆっくりゆっくり暗くなってくる。
金指に到着した頃にはもう日が暮れかけて、線路の2本の光も見えなくなりそうだ。
事前に知識として仕入れてはいたが、この鉄道、釧路本線にある北浜などのように
一部の駅舎内で喫茶店や軽食などを出す店がある。
こうしたご馳走路線では、やはり再訪した機会にはこれら駅に降りるべきだろう。

その際はついでに遠州鉄道にも乗って、浜松を目指すのもよいかなと考えている。
天竜川は例の中央構造線に沿っている。もしかしたらこの鉄道で「つきのみや駅」に
出会える可能性もあるかもと、またも妄想してしまう。

そして終点の掛川。JR側のホームで待っているとどうやら様子がおかしい。
どうやら上り方面で人身事故を起こしたらしく、運転見合わせとの構内アナウンス。
やがて浜松方面から列車が来たものの、折り返し浜松へと発車してしまった。

青春18きっぷの有効活用の意味がなくなってしまうので、なるべく新幹線は避けたい。
やって来た列車でどりあえずは上り方面を目指す事にはなったが、前方の列車感覚が詰まって
途中の駅で長時間停車する状況に。このまま行くと静岡で乗り換える予定の熱海行きも危ない。

結果として静岡では、乗って来た列車がそのまま最終の熱海行きとして運行する事になったが、
熱海から先も無事に小田原まで行けるのか、不安は残る。下手すると小田原で足止めを食らう
可能性もない訳ではない。安全をとって仕方なしに新幹線に屈する事になった。

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【都市伝説を求める旅 1日目】 つきのみやはどこにある?

東海道線には「つきのみや」という駅があるという。
ただし、ある条件が揃わないと単に列車に乗っているだけでは見る事はできないらしい。

北海道の江差線にあるような「天ノ川駅」に近い存在かもしれない。
ただしこちらはそもそも列車が止まらない「駅のような」構造物なので乗り降り出来ない。
対して「つきのみや駅」はその存在すら見る事が難しい。乗り降りする事が出来るかも
出来ないかもしれない。その意味では「天ノ川駅」のような駅を想像している。

某掲示板の書き込みが創作であったり、その人が見た夢でない前提なら
夜中の3時頃、静岡県か愛知県辺りを走る夜行列車で居眠りをした状態から
目が覚めた時に見たらしい。夜行列車というと寝台列車も含まれるが、
通路を挟んだ席で居眠りするおじさんが登場するので、そうした車内構造となると
臨時快速「ムーンライトながら」が該当する。

ただし書き込みがかなり前のようなので、車両が165系湘南色の頃かもしれない。

ふと名古屋までの小旅行に出ようと思い立つが、
「ムーンライトながら」はまだ運転されていない。夜中の3時頃とあるが、書き込んだ本人が
時間を勘違いしている可能性もる。東海道線だと思っていたが、実は豊橋から名古屋まで
並行する名古屋鉄道本線だったかもしれない。

という事で、豊橋からは名古屋の赤いサラブレッドである名鉄に乗り換えることにした。
単に乗り潰しというのが本当の理由だったり、でなかったりは内緒です。

名鉄名古屋まで1000円ちょっと。一番後方の車両に乗り込み、クロスシートに座る。
全く知らなかったが、次の停車駅を知らせる電光表示板には現在の速度が表示される。
その数字を見ていくと速度は120kmまで達した。狂気、いや狭軌でこの速度は驚いた。
軽いカルチャーショックというべきか。狭軌では特にJRの京都〜新大阪で走っている
近郊型車両だけだと思っていたが、私鉄にもあったとは浅学も恥ずかしい限りである。

幸い混んでいない車内なので、向かいの窓から闇夜に時折流れるホームや街の灯りを眺める。
居眠りしていたら、知らない駅に止まっていて高層ビルが幻想的な風景が現れそうな雰囲気が
ありそうといえば、ありそうだ。ま、初めて乗る路線なんで全部知らない駅ではあるけれど。

居眠りしたら、おそらく降りる筈の名鉄名古屋を乗り過ごしそうで怖い。
結局居眠りせずにぼぅーと窓に流れていく灯りを眺めていたけれど、ついぞ名古屋に着くまで
幻想的な摩天楼も「つきのみや」らしい怪しいホームも見る事はなかった。

現実の摩天楼、名古屋に今夜は投宿する。

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いつか、連れ添ってロマンスカーに乗りたい。その前に生きていないかもしれない。
3号車のカフェで夕暮れを見ながら飲んでいたら声を掛けられた。白い制服と帽子を纏った車掌に。女性ではなかったけれど…。
仕方なく後展望席に座っている客と理解したらしく、近くの空いている席を教えてくれた。

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年明けて早々、ふと家族と浅草へ観光する事になった。

私が小学生だった頃は団地住まいだったこともあり、経済面にも余裕があったので
父が働く会社指定の保養所となっていた熱海にホテルへと毎年恒例のように連れて行って
貰った記憶がある。

熱海への家族旅行はもう少し後になってからで、
さらに時代を遡ると、京都での二階建てバス、滋賀なら琵琶湖では遊覧船「ミシガン」、
長野県は松本城や白馬三豊でのバンガロー宿泊(今はやらなくなったが、近年まで続けて
いたくらいテニスを趣味の一つにしていたので、おそらく近くのテニスコートでぼーっと
過ごしていたかもしれない)、伊豆では泉郷での貸別荘宿泊、石川県では輪島や軍艦島。
軍艦島のそばのブランコと、宿泊した民宿(だった気がする)では砂浜でトランペットを
吹く若い男性が妙に記憶として残っている。
民宿だと正確な場所は西湘バイパスを車で飛ばして、いつかの夏休みに海近くの民宿に泊まった
思い出も微かに残っている。民宿についてすぐに海に行きたくてワクワクしていたはずだ。

京都では二階建てバス以外にも小舟による保津川下りや、太秦映画村の記憶もある。
太秦映画村の場合、旅行の移動が大抵が車だったのに対して、列車での移動だった。
朧げな記憶しかないのが今となっては残念だが、あの国鉄色キハ58系だったに違いない。
気動車の走行音までは覚えていないが、窓からカーブにくねらせる車体や風景を本当に
僅かばかりだが、記憶がある。

振り返ると湘南生まれの父は海沿いに旅行に連れて行ってくれた傾向が多くなり、
それが小さいながらも私にも影響している。だから海を見ると何だか安心するし、
ふらっと江ノ電に乗って見たくなるし、「湘南爆走族」(吉田 聡 作)というマンガに出てくる
キャラクターやその生活スタイルに暴走族という点を除いて、憧れにも似た気持ちに
なるのだろうと思う。

また旅行の移動でほぼ車だったのは、その時代の流行というのもあったかもしれないが、
家族4人だというのに、利便性を無視して後方座席が乗りにくいスポーツカータイプの
2ドア車、HONDAの車に父は愛着があったからだ。長らく家では買い換えもHONDA車が
続いていたが、現在はあまり車を使わないこと、一軒家を構えてローンが残っているため
経済的な事情もあって、三菱の小型車COLTになった。

小さい頃から旅行となると、窮屈な車での移動に辟易していたかもしれない。
また車が父を象徴しているように感じられ、旅行好きの遺伝子は受け継いだものの
こちらは車ではなくて他の手段で旅行しようと反発したかったのかもしれない。

それが私を鉄道好きへと昇華させ、旅行では専ら鉄道と傾倒したのかもしれない。
神経を使ってまで運転はしたくないし、いくら気をつけても運転のミスが他人の人生を
奪ってしまう可能性が分かっているなら、車の運転はしたくない。
それでも免許証を持っているのは大抵どこでも通ずる強力な身分証明書と思っているからだ。

今回の小さな旅行では列車で移動した。
銀座線でまずは上野へ。上野動物園で公開予定になっていたパンダを見るためだったが
残念ながら公開日が延期となり、結局見られずじまい。

浅草へは台東区が運営している循環バスこと「めぐりん」に乗る。
マイクロバスを可愛くしたデザインだが、どこまで乗っても100円という安さは
浅草周辺を走る都電荒川線みたいなものか。上野動物園や雷門付近を中心に意外と
広いエリアを走っている。4種類の循環ルートに別れており、ルートをうまく使えば
都電荒川線に乗り継いで、また「めぐりん」に乗り換えるという小さな旅ができそう。

雷門の大きな赤い提灯を通り抜けると仲見世。おみくじ引いたら大凶。
もう一度引いたけれど大凶。でもこれ以上悪い事は起きそうにはない。
かつての某ギャクアニメではこれを前向きに「おおメデタイ」と読んでいた。
なるほど「凶」が「メ」が箱から出ようとしているようにも見える。

小学生の頃は夢中で見ていたアニメの一つだったけれど、
今振り返ると、ドラえもんには及ばないまでも人生で落ち込んた時に前向きに生きる事を
ギャクに織り込んでいたように思える。

浅草では参拝客には有名な「葵丸進」で天麩羅定食をビールとともに頂く。
かつての家族旅行以来、こうして集まって外食するのは久しぶりであった。
天麩羅は単品でもう一皿頼んでも良いくらいにさっぱりと揚げられている。

だが、この後に今回の小旅行のメインイベントでもある神谷バーがあるので、
お楽しみはそれまで我慢することにしよう。

お腹が落ち着いたところで、東武浅草線の業平橋駅まで歩いて行く。
歩く途中からすっかり634mになった東京スカイツリーが聳え立っている。
来年春には公開予定とのことだから、これも楽しみである。
東京スカイツリーの足元周囲にはその姿をカメラに収めようと、人の波が絶えない。
その集客力は絶大である。地元もこれを観光事業と熱が入るのは当然だろう。

東京スカイツリーに一瞥し、再び浅草へ戻る。
台東区浅草1丁目1番1号、東武鉄道の浅草駅から徒歩0分の場所にあるのが「神谷バー」。
良くは知らないけれど、長い時間をこの浅草で歴史を刻んでいる事はその店の雰囲気が
教えてくれている。最近の店舗には到底真似できないその重厚な雰囲気。

田園都市線の車内広告で、店の前を通り過ぎる度に気になっていたお店。
初めて両親と共に足を踏み入れることができた。

神谷バーという店の名前に少し誤解があったが、バーテンダーにカウンターから注文するような
どこでも見かけるスタイルではなく、テーブルと椅子が並べられた大衆酒場である。
最近の雰囲気を模造した酒場ではなく、正真正銘の本物の大衆酒場がそこにある。
入り口のレジで注文し、チケットを購入してから席に座ってからやってくるウェイトレスに
チケットを渡す。2度目以降の注文は給仕に声を掛けてチケットを購入すれば良い。

常連客となれば、気安く給仕に話しかけるのも朝飯前、昼飯後。
車内広告が訴えるように旧友同士が無駄話に思い出話に花を咲かせる空気が流れている。
常連客はあまり集団ではなく、一人や少人数が多いように見受けられる。
店内は賑やかだが、人の目を気にせずに気を遣わずに一人の時間を楽しみたいという人も
この店が長く愛されている理由に違いない。他で探してこうした店はそう見つかるまい。

この店での大きな目的。もちろん「デンキブラン」を飲む事だ。
アルコール30度の「デンキブラン」、40度の「電氣ブラン<オールド>」の2種類。
今回は30度の方を頼んでみた。ついでに色々とおつまみも注文して皿が並んだ。
強い洋酒だが、心地「酔い」気分で緊張もほぐれてくる。有楽町のインディアンが
魔法のスパゲッティーなら、こちらは魔法の酒である。

色々と頼んだつまみで特にオススメなのは、スペアリブ。
おつまみとして、しかもバーで食べられるのは結構昔も今もハイカラで珍しいかもしれない。
デンキブランだけでも、1時間や2時間などあっという間に過ぎて行く。
ひとつ、大切な時間をこの浅草の老舗に刻む事ができたのは何だかうれしかった。

お土産、といっても自宅で楽しむ用だが、外で販売していたデンキブランの瓶を一本、
袋をぶら下げて、ほろ酔いで地下鉄の駅へ。昼下がりの浅草を後にした。