2008年6月18日水曜日

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田園都市線にやってきた紫帯の7000系。
ふと見上げると、有楽町新線だった頃の路線図。


秋葉原の例の殺人事件の新聞記事では、献花台に手を合わせる高校生と
思しき数人の写真とともに、事件を傍観し「記念撮影」に勤しむ人たちの
行動に疑問を投げかけている。

記事では、秋葉原(記事で「アキバ」と書いているのは、「オタク」と
同義のつもりだろう)という劇場で起きたこと、アキバがアニメに
代表されるような虚構の世界が身近にあったことが事件が起きた、
路上で血を流して倒れている人が目の前にいることを「珍しいイベント」と
認識してしまっているとした上で、自分に危険が及ばない限り、
関係ないことだという気持ちの表れだと分析している。

この点は前のニッキでも書いたことだが、自分のケツに火が点かない限り
行動することができないのが人間なのは、最近に始まったことではない。
人間そのものはいつの時代も変わっていないと考えている。
日本人に限定するなら、ちょんまげの代わりにネクタイとなり、
裃の代わりに背広を着て、草履の変わりに革靴で闊歩しているに過ぎない。
自分本位、強引に言ってしまえば自分勝手な性悪説はいつの時代も
変わっていないと強く思っている。
データを取っているわけではないからその根拠はない。
あえて言えば、自身がそういう人間だと自覚しているからだ。

だからテレビのニュースでこの事件を知ったとき、そんなイベントが
起きたのかという感覚だった。
自分には関係ないイベントで、現場にいなくてよかったなという気持ち。
遺族感情(という言葉も嫌いだが)の点から、こういう内容をニッキに
書くべきではないが、「遺族感情」という言葉には「(自分には関係ないが)
お悔やみ申し上げます」と相手に距離を置いている感じがして好きではない。
受験でいい点数が取れなくて、必死になっている人に「がんばれ」と
追い討ちをかけている行為と同じだと思うのだ。

そういう見方をしているので、事件発生で必ず登場する心理学専門の
大学教授などが「こうすれば事件は防げた」と主張しているのが、すごく嫌いだ。
自分と自分の家族に危害が及ばない限りは、口では何とでも言えるよと言いたい。
ならば意見ばかりしてないで、腕をまくって行動に移せよとも言いたくなる。
だから将来間違っても評論家とか、専門家を名乗るような者にはなりたくはない。

だがそれでも血の流れた現場に、献花台に携帯やデジカメのカメラ、報道カメラを
向けて撮影する人たちの気持ちが私にもわからない。
私も正直気になっていたので、現場には訪れたが、献花台の白いテントが
見えてきても、目の前の通りすぎて大量の花束、ペットボトルが置いてあるのを
見ても、興味本位で撮影しようなどとは微塵も思わなかった。

私が現場の被害者となったら、報道カメラや向けてくる携帯やデジカメのレンズに
睨みながらこう思う。「ほっといてくれ!」。

実は自分自身も宗教勧誘にしつこく付きまとわれた経験がある。
幸い殺されることはなかったが、とにかく逃げようと横浜線のホームまで来たが
電車を待っているそのホームまでにもやって来て、逃げようとする私を
一切放そうとしなかった。
その体勢でどうにか近くのキヨスクまで通報してくれるように乞うたが、
店員のお姉さんは困り顔するばかりで動こうとしなかった。
(実際私が店員でも同じだったと思う)

これも幸いにも異常を察知してくれたのか、鉄道警察隊と思しき人が
駆けつけたが、それでも待っている電車に乗り込み、ドアが閉まるまで私から
手を離そうとはしなかった。あのときは本当に怖かった。ただ怖かった。
同じ電車の別のドアから乗ったのではないかとそればかりが頭の中を駆け巡り
用心のために次の駅で一旦降りて、様子を見てから次の電車で帰宅した。

今から思うと大したことではないように思えるが、
横浜線のホームで殺されたかもしれないと思うと、ぞっとすることがある。
今回の秋葉原事件ではそんな体験を思い出した。

そんな経験からも私を含めた人間は自分本位で自分に危険や不安がない
安息の地にいる限りは、梃子(テコ)でも動かない生物だと感じている。

逆に言えば、安息の地にいても行動できる人間を私は「カリスマ」と呼ぶ。
それができない人間がほとんどだから、そうした「カリスマ」に憧れる。
たいていは憧れるだけで何もしないのだが。

最後に少し脱線するが、人間は他人を最初から好きなようにできていない。
初対面の人の話の内容をいきなり受け入れる人はいない。
半信半疑どころか、「無心全疑」である。勝手に私が作った四字だが
最初は受け入れる心は無く、話す内容も疑って冗談であるという前提で聞く。

たとえば、同世代と会話していてその人の話に「うそ?」とか「本当?」
というように反応していないだろうか?
自分の興味があるところは話してくる内容が嘘であっても、そんな反応は
ほとんどしないだろう。

テレビのお笑いもかなり影響しているだろう。
交わされる会話は冗談が前提になっている。もし真剣な話をする場合は
「マジな話なんだが」と断りを入れないといけない。

自分の興味があること、ハマッていることを一方的に喋るのは苦でないが、
相手の話を聞き、間を見て話し出すことは意外に難しい。
ノリやツッコミで話さないといけないという暗黙の了解ができている。
これが私は今も受け付けない。
(そうすると、融通が利かない話しにくい奴と苦笑、敬遠されるようだ)
メール先進国の背景には、こうした手間やエネルギーから開放されたいという
希望の表れだと思っている。

私も某掲示板で特定のスレッドに書き込みをすることがあるが、
他人の書き込みを見て強く感じるのは、掲示板の携帯メール化である。
面と向かって話したくないが、パソコンの前で知りたい情報は教えてほしい。
だが書き込まれる情報を嘘であるという前提を持っている。
(しかし、書き込まれた情報を本気にしてしまうこともあるかもしれない。
掲示板ではこうした嘘の書き込みを「ネタ」と呼ばれ、このネタに引っ掛けようと
する行為を「釣り」と呼ばれている。各スレッドではどれだけ本当に思わせるか
高度な「ネタ」の「釣り」合戦が繰り広げられている。)

東京の知られていない地下に関するスレッドを覗いてみると、雑談系の板とは
性質が違って、あまり「釣り」は見られない。
その代わり「●●の地下通路が怪しい」というような書き込みがほとんどだが、
この書き込みの真意として、誰かフィールドワーク(実地調査)してくれて
スレッドに詳細を書き込んで欲しいという気持ちが隠されている。
できるなら画像付きで「詳細キボン」(詳細希望)。

パソコンの前に座って、楽に情報を知ることに全く違和感を持たない者が
増えてきたなという苛立ちも強く感じるこの頃だ。
だからって、私は何もしないのだが。ただ感じていることを書きたかっただけ。

「私の目に見える出来事はイベントであり、ブログのネタである」

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