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日本最北端にある駅、JR稚内駅。
前回旅をしたときに見かけた見慣れない形の防波堤。
地元では「北防波堤」と呼ばれているが、よくよく調べると
遠い遠い昔、サハリンへの連絡船へ乗る乗客のために
わずかな期間設けられた駅であることがわかった。
その名も「稚内桟橋」。
昭和15年の時刻表にはそのように記載されている。
もう少し詳しく知りたいと思い、大宮の鉄道博物館へ
足を向けてみることにした。
鉄道博物館の2階には鉄道関係の資料が閉架式で
管理されている「ライブラリ」という部屋がある。
もっとも資料を読むための部屋であるため、
子供連れやほとんどの人は入ってくるなり、
あまりの静けさにすぐに部屋を出て行ってしまう。
今となっては懐かしい図書目録カード方式で、
カードに書かれた書名を閲覧申込用紙に書いて
正面奥のカウンターに差し出すと、係りの人が
奥から該当の資料をもってくるというスタイルだ。
街にあるような図書館と違って、
国会図書館のように本棚に並ぶ本が見えず、
気軽に手に取れないが、故意に持ち帰る輩から
資料紛失を防ぐには致し方ないのだろう。
奥に長い引き出しに収められた何百枚もの
図書目録カードからこれはと思う書名を見つけるのに
少し時間が係ったが、結局前にも少し読んだ同じ
本を読むことになった。
まずは1冊目。
深緑色の布製表紙というしっかりとした装丁に
金の縦文字で『稚内連絡船史』と書かれた本を開く。
「北防波堤」と呼ばれている防波堤が完成したのは
昭和11年。設計は26歳の名前は忘れたが、この
防波堤工事に17年の歳月をかけており、
それだけこの「北防波堤」への当時の鉄道省、
利用者への期待はかなり高く、重責だったに違いない。
この防波堤が完成した翌年、昭和12年。
駅として利用するための工事が着々と進められる。
南稚内(現JR稚内)で終わっていた線路をこの防波堤
まで伸ばし、ホームや上家が建設される。
駅として完成し、昭和13年から営業開始。
それまでは南稚内から1.6kmほどを歩き、
さらに艀(はしけ)で連絡船に乗らないといけなかったが、
駅の待合室からタラップでそのまま連絡船に乗ることが
できるようになる。
連絡船が到着し、降ろされたタラップを渡り終えるまで
寒空に輝く稚内の星空をどんな気持ちで乗客は
見上げていたのだろう。あるいはそんな気持ちの余裕は
なかったのかもしれない。
線路はホーム側と海側と2本。海側には岸に接岸した
船に荷物を運ぶために使われていたようだ。
対して、連絡船が行き着く先であるサハリン側の
「大泊」駅はもう少し前の昭和3年に完成している。
完成と同じ年にはすでに営業しており、樺太鉄道としても
異国への連絡輸送という大きな期待があったようだ。
それもそのはずで、日本国内の鉄道省と結んだ連帯運輸の
契約内容では、青森駅を互いの接続駅として、東北本線
さらには東海道本線の大阪までと規定している。
借りた2冊目、『樺太鉄道資料集』に掲載されている
サハリン内の鉄道路線図を眺めると、路線の殆どが
国有鉄道線、正確ではないが今の感覚ではJR線となる。
遠くは大阪から稚内を経由し、北のサハリンまで荷物が
運ばれていた時代があったのだろう。
この稚内から大泊を結んでいた「稚泊航路」だが、
いつも順風満帆に運行されていたわけではなかった。
稚内、大泊といずれの当時の気候を調べてみる。
春夏秋冬がある同じ日本であっても、稚内まで来ると
冬の期間が長くなる。早ければ9月からその季節は
やってきて、翌年の4月までは続いていたようだ。
それよりも北、大泊についても同じ事が言える。
平均気温も稚内が-3℃に対して、大泊は-25℃。
半端ない寒さの上に、航路上は厚い流氷に覆われ
船がそれ以上に進めずに足止めを食ったこともある。
救助船まで流氷上を歩く人の姿がモノクロ写真で
確認できる。救助船を来るまで、そして流氷上を
歩くときにふと見上げると星が輝く夜空。(というより
夜にこうした事故があったのかは不明である)
どんな光景だったのだろうと妄想してしまう。
その流氷も最近では温暖化のせいなのか
見かけることが少なくなってきたようである。
連絡船8~9時間かけて、稚内と大泊を結んでいた。
車内販売ならぬ、船内販売のリストもこの本には
載っていた。それによると、今もおなじみのビールには
札幌ビール、キリンビール、そして三ツ矢サイダー。
吸わないが、たばこの銘柄は逆に知らない銘柄が
並ぶ。「響」「桜」「暁」「光」。今の横文字よりは
重厚感があってよい。
昭和13年~15年は戦時下という事情から
この連絡船の時刻は時刻表から省略されてしまう。
船内販売も制限の対象となり、ビールは1人1瓶、
日本酒は1杯までという具合である。
長い連絡船も灯台が見え始めるとようやくサハリン
であることを実感したのだろう。
大泊少し手前には西能登呂岬と呼ばれる岬があり、
地図では魚の尾びれような先端部にあるその灯台が
連絡船を大泊へと導いてくれていたはずだ。
また資料ではメインの航路ではなかったようだが、
この岬から左側へ分岐し、「稚斗航路」として
「本斗」まで結んでいたルートも存在した。
この「本斗」駅を含む、サハリンの東海岸沿いに
「久春内」まで結ぶ路線を樺太東線、この樺太東線から
分岐して横断する線路の先は、「豊原」につながり
樺太西線と呼ばれたこの路線名大泊からこの豊原と
西海岸沿いに、北寄りで少し内陸部に入った
「古屯」まで結んでいた。当時はこれらの路線が今の
(正確には違うだろうが)JR線だった歴史を知れば、
国鉄キハ58がサハリンの鉄路を走っていても
何らおかしくはないのだ。
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