2007年3月17日土曜日

つくもノヲ”X="1≠ 103


壁に寄り掛かるような感じで、ただ休みが終わるのを
待っているのは明日が来る事への不安が膨らむだけですが、
休みの間も何かしている間は不安を感じずに済むのだけれど
やはり不安を拭い去ることはできません。

だから休みが長ければそれだけ休めるというわけではなくて
次第に不安が増大していくわけです。

まるで仕事から現実から逃げるようにして過ごして来て、
今もそれが続いています。
休みの間はひとりで行動することが好きだし
人に会って時間を過ごすことは時間が勿体ないと感じます。
休みの前日になってしまえば、通勤途中で考えていた
これからの自分についてはどこかに吹き飛んでしまい
休みが終わった今日のこの電車の中で答えが出せていない
問題を考えています。

だが、考えているといっても先の事だという意識が抜けずに
いるので、真剣に考えているとはいえません。

電車の中で、このニッキを今思うままに書いていると
ほんの少しだけ、不安が治まるようです。
しかし同時に、この電車が途中で転覆事故など起こして
自分がそれで死んでもいいやと考えていたりするわけです…。

仕事が終われば、この不安が消えることは分かっているけれど
それまではどれだけの文字をニッキに綴っても不安から
逃げられないという繰り返しの日々にうんざりしています。

自分が変わらないと見えている、囲んでいるこの世界は
いつまでも変わらないと頭ではわかっているのだけれど、

「どうすればいい?」

の答えが見つからずにもがいている感じです。

書いている間に乗り換え駅までの40分は過ぎてしまい、
乗り換えた電車の数分間の発車待ちを天災でも起きて、
発車して欲しくないと思いながらそれでも無情にも電車は
走り出しました。

この繰り返しの日々に鈍い痛みを心のどこかに
感じているけれど、どうしようも出来ないでいるのです。

電車の電光案内板とか売店とか線路とか、そこには問題の
答えなんかあるはずはないのに救いを求めるように見ている
自分がいます。

今日は土曜日。平日よりは忙しくないけれど眠くなるほど
暇でありません。4月に向けて、やることはいくつかある
けれど、それも明日もあるからと先送りしたい気持ちに
なってきてしまっています・・・。

昨晩の番組最後でやっていた星座別の週末ランキングも
最下位というだけでなんか気持ちが落ち込んでしまって
いましたが、昼近くにはその不安な気持ちは予想したとおり
消えていきました。

夜が近づくにつれて、特に明日の夜は月曜日の前だから
かなり不安な気持ちになっていくのだけど、それまでを
待っている感じです。

ニッキを書いていたら、高校生の頃を思い出しました。

中学までは小学校からの知っている人たちの集団であり
むこうから話しかけてくれたこともあって、友達づくりに
苦労しなかったのですが、高校では知っている人はほぼ
おらず、話しかけてくれる人もいませんでした。
そうなれば、自分から話しかけないといけませんが、
緊張してしまい、自然に話しかけることはできません。

しばらくはそれが続いて、なんとか1,2人と友達になれて
登校拒否になりかけた気持ちは収まりました。
それでも卒業するまでは登校することが憂鬱だったことは
確かです。

そんなわけで修学旅行も決められたメンバーでの集団行動
以外は基本的にひとりだったので、楽しい思い出とは
なりませんでした。

それがトラウマなのか、特に高校生の集団をそばで見かけ
ることがあると、少し緊張します。
そのトラウマを引きずる形で、不安な気持ちになることが
あるのかなと考えてみたりします。

胸とか心臓を締め付けるような不安に揺れるときは、
自分が社会不安障害とか、うつ病とか、なにか精神障害を
抱えているのではと疑ってみたりすることがあります。

人前で話せたり、ためらうことなく家の外に毎日のように
出ていること、またそんな精神障害があるのではと自覚を
している時点で、精神障害のはずはないのだけど。

たまに絡めとられるこの不安というものだけど、緊張に
近いものがあります。何十年もやっている歌手が何度舞台に
あがっても感じるといわれる「緊張」と同じかもしれません。

何歳になっても不安からは開放されない、と親にいわれても
この時折やってくる不安をどうにかしたい気持ちはあります。
解消されないなら楽しめばいい、なんて楽観できるほど
今の私は強くありません。

15日に観た「秒速5センチメートル」で語っていた主人公の
僕達の前に立ちはだかる世界にいる気持ちというものが少し
わかったような気がしました。

ルパンⅢ世「くたばれ!ノストラダムス」のルパンのセリフ

「人生を楽しむコツはどれだけバカをするかなんだよ。」

も、その意味が分かり始めているような気がします。

前提としている考えがそれぞれ異なる他人同士のこの世界で
どうして正しい人生などあるだろうか?
この世界のほとんどはそんな人間が正しいと思い込んでいる
仮説で塗り固められていると、次の本では書いています。

99.9%は仮説

言われてみれば、他人と自分が考えていること(仮説)が
正しいと思っているから、話も通じないこともあるし
考えていることが違うこともあります。

自分の進むべき道を人に聞いたって、その人はその人が
正しいと思い込んでいる仮説で話してくるわけだから、
正しい道は苦しいけど自分で見つけないといけないようです。

仮説だらけなのに、この世界が成り立っているのは、
各人が正しいと思い込んでいる事が仮説にすぎないのに
それに気づかないか、あるいは正しいかどうかの判断が
できない不安があって、雑誌や本に書いてあるような
内容が正しいと思い込みたいと願っているからだと
考えます。(というわたしの仮説)
後者はこの本には書かれていないけれど、
私はそういうふうに感じています。

だから異議を唱えられると、正しいとされていることが
崩れ去る不安があるので、特に神経質な日本人は
口を閉ざしてしまうのではとも考えてみました。

たかだか25年しか生きていない私に、しかも人と出会う
ことを避けてきた私が分かるわけではないのですが。

自分で探さないといけない進むべき道、
地図には載っていないその道を見つけることに疲れるから
とりあえずは流されるままに日々を過ごしているのです。

そこまで分かっていながら、果たして進むべき道が見えて
こないのは、大変もどかしいのです。

進むべき道、それはどれだけ国道246号線を歩き回ろうが
銀座のスパゲッティー屋でインディアンを食べようが、
そしてC言語のポインタを勉強しようが、見えてはこない
ものなんでしょう。

まったくどうでもいいことだけど、
C言語のポインタは買った本を片手に16日一杯を使って、
ノートパソコンでコードを打ちながらやり始めました。

ああ、そして日曜日の夜には翌日への不安から
こんなことを考える余裕はなくなっているでしょう。

アニメのような魔法が使えても、奇跡が起きたとしても
それでは本当に自分にとっての「いい人生」ではないこと
だけは少なくとも確信が持っています。

これだけ書いても、いろんな音楽を聴いても
やはり何も動かないみたいです。自分が動かないと将来は
この世界では生きていけない・・・・・・・・
でも長生きだけはしたくないと思っています。
なぜかはわかりませんが。

この世界に面白いことはきっとたくさんあるだろうけれど、
自分から積極的な態度で接した時にそう感じるのであって
同じものをただ見ても、面白くもなんともないのです。

「だから、どうしたいんだ?」

そう、訊かれてもまだ答えられない自分がいるのです。

なんか久しぶりにハキダメニッキらしい
ニッキを書きました。こんなニッキを書くことに
不思議な楽しさというか快感を覚えている自分がいます。

そして今日も進むべき道を考えることから逃げながら、
ウォークマンで音楽を聴きながら、いろんなことを
妄想して電車に揺られて家に帰っていくのだろうと思います。

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